破壊するものの解釈

破壊するものの2つの解釈

ロマサガ3の物語の中心的なテーマはなにか.この問いを「ラスボスの「破壊するもの」は物語においてどのような役割を担っているのか」,そして,「主人公たちがこれを倒すことは何を意味しているか」,という問いに置き換えて考察する.このような問いに対しては,2つの解釈が可能であるように思われる.一つは,FFシリーズのような人間における内面的な対立を描写しているというもの,他方は,人間を外的に規定する超越存在の超克という解釈である.それぞれを以下において追ってみる.

内的な対立としての破壊するもの

「破壊するもの」という名は固有名ではなく,「破壊」という抽象的な概念を有したある存在を意味する. そして,この破壊という概念は人間の根本的な衝動として解釈できる. このように,人間の内面的対立を描いた作品は,精神分析の登場以来,ジャンルを問わずさまざまな作品に頻繁に見ることができ, ゲームだと『ファイナルファンタジー』シリーズ(少なとも9までのFF)ストーリー構成は明らかに精神分析もしくはそれに近い思想の影響を受けている. まずはFFにおける内面的な対立の描写をみてみよう. FFシリーズにおける内面的な対立の描写は,FF9のラストダンジョンで明瞭に表現されている. つまり,記憶(自己の内面)を遡り,最終的に人間の根源に至る.そして,そこで対峙するのがラスボス「永遠の闇」, つまり人間の根源的な負の衝動 *1 との対決である. これらの内面的な側面を物語の最後に倒される存在であるラスボスとして位置づけているのは,内在する永遠の苦悩をプレイヤーが克服するという構造を物語が持っているからだ. それによって,プレイヤーに厭世主義を克服させ人生を肯定的なものとして捉えさせようとしている *2 . ロマサガ3のラスボスもFFのものと平行的な関係を見いだせる.つまり,「破壊するもの」を内面的な負の衝動とすれば,これの物語もまたFFのように人間が自らの原始的な衝動を自らの意思で克服する物語として理解できる.そして,ラストダンジョンの「アビス」はFF9の「記憶の場所」のように人間の精神の内面的な世界として,つまり原初的でカオス的な「生」の世界として捉えることができる.

外的な対立としての「破壊するもの」

上記のようにロマサガ3の破壊するものとの対決は,内面的な対立として解釈できる.では,ロマサガ3のストーリー構成はFFのものとほとんど変わりないのだろうか.否.ロマサガ3には,そして,サガシリーズにはFFとは異なる中心的なテーマがある.それは,端的に言えば「運命」の克服と「自由」の獲得という実存主義的なテーマである. ロマサガ3の世界観の中心に「死食 (日蝕)」がある.それは,600年に一度発生して,その年に産まれた全ての生命は運命の子を除いて死に絶えるという,厄災である.この日蝕という出来事は,実際の古代社会において特別な出来事であった.古代の人々にとって”天体”とは不変的なものの象徴であったが,突如としてその不変性が失われる日蝕という出来事は,彼らの生活における安定を犯すものであった.そして,彼らはこの不変性/安定性を失わせる日蝕に悪しき超常的な原因を考えた(神話では神々の戦いなどが原因とされる).このように,日蝕は天体の出来事であるため「運命」を司り,かつ,日常性を奪う「不吉」なものとした考えられたのだ. ロマサガ3はこの日蝕の,つまり不吉な運命の原因である超越的な存在を人間の手で打ち倒す物語である. 人間は人間以外の超越存在に規定されているという人間観, そして,歴史観は,アリストテレスの哲学(人間の「本質」という形而上学)とそれを土台にした中世のキリスト教教会によって形成された. そして,このような人間観は,ヘーゲル哲学で完成を迎えた.しかし,それ以降,様々な歴史的変転を経験した人類は, 神ではなく,自分自らが自身を規定していかねばならない,というそれまでの人間観とは180度異なった人間観に至る. そのような思想的潮流の中で生じた思想が「実存主義」や「生の哲学」である. 人間を規定する超越存在を人間の手で打ち倒す物語であるロマサガ3は,自らを規定する運命との対決,そして,自由の獲得を描いた作品である. そして,エンディングで詩人が過去を”物語る”という一幕は,歴史を神から人間の手に取り戻したことを意味している.つまり,歴史は神によって作られるのではなく,人間によって物語られるのである.このように,この物語の背景には実存主義的なモチーフが見て取れる. このようなモチーフは,ロマサガ3に限らず,他のサガシリーズにも見いだせる. 例えば,サガ1は人間(プレイヤー)の創造主を乗り越える物語であり,ロマサガ1は神殺しの物語であり, ロマサガ2/サガフロ2は”過去”を克服する物語である.このように,サガシリーズは,人間精神を規定する「大きな物語」の超克という一貫したテーマに裏打ちされているのである.

ロマサガ3と自由

上記のように,ロマサガ3のラスボスを二つの方向から解釈したが,両者はそれほど異なるものではない. つまり,内的な規定を克服することも外的な規定を克服することも,自らの意思で自らを規定するという「自由意思」によってなされるのだ. フリーシナリオと銘打つロマサガ3は確かにゲームのシステム部分においてもプレイヤーに選択の余地を与えるが, それと同時にゲームの中心的なテーマにおいても人間の「自由」を描いているのである.

first post 2012/03/05

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*1  これはショーペンハウアーの「意志」で解釈できるだろう.そして,エンディングで「歌」(Melodies of Life)によるニヒリズムの克服は,ショーペンハウアーが言う”芸術(特に音楽)による慰め”で理解できる.

*2 FFにはニヒリズムの超克という中心的なテーマがある.これは,作品の随所で「無」という語が強調されることからも明らかである.そして,FF9では悲劇の本質である人間の根本的衝動を克服することで,悲劇で始まる物語をエンディングでは喜劇に変えるという構成をなしている.